掲載日:2019-11-01
――プロフィール
小柴資子(こしばもとこ)さん、1931(昭和6)年生まれの重度脳性まひ者です。
戦時中は学力よりも体力に重点が置かれ、「米食い虫、非国民」とののしられながらも、果敢に挑み続けた方です。
戦後も障がい者には厳しい状況は続きますが、小柴さん持ち前の不屈の精神で日本社会事業大学研究科に聴講生として1年間通学した後、日本肢体不自由児協会にケースワーカーとして就職し、同病者として子どもたちの気持ちを真に理解しようと努めました。
小柴さんは「競争率1300倍」といわれる国家公務員試験にも挑戦しています。小柴さんの就職活動後の1960(昭和35)年に身体障害者雇用促進法が公布されました。
同じころ、身障者運動を盛り立てていくために、地域の身障児の親たちに呼びかけて「父母の会」を結成させます。それが「障害者の生活を向上させる会」へと、つながっていきます。
私たちの大先輩が2017年9月に亡くなられていたと、最近知らされました。
これから何回かに分けて「小柴さんの想い出」を掲載しますので、会員の中でも小柴さんをご存知の方は、ぜひ寄稿して下さい。
第一回目は、長く運営委員を務める浅川晃司さんが「想い出」を書いて下さいました。
私が、初めて小柴さんにお会いしたのは、今から40年前、ちょうど私が目黒区役所に勤務するようになった頃である。
当時の私は、障碍者運動とかどういうものなのか全くわからず、まだ施設職員として働き始めたばかりであった。私は、向上させる会の会議などに出席しても、議論されている内容がほとんどわからず、ただただ席に座っているという状況であった。
その時、障碍者自身が関係者とともに運動に関わり、社会にアピールする事の大切さを教えてくれたのが、小柴さんであった。
そのお姿が、昨日のように思い出される。また、小柴さん自身は、お幾つになっても学ぶことには貪欲なかただったという印象が、今でも強く目に焼き付いている。
毎年行われる全国障碍者問題研究会をはじめ、各種の研究会・学習会には時間を惜しまず精力的に参加され、多くの学びを周囲の人に伝えてくれた。
以後、「鷹番ふれあい祭り」や「雪だるまスキー」等で関わることになるのだが、いつもバイタリティあふれる方であった。目黒区における障碍者運動にはなくてはならない人である。お亡くなりになったということをお聞きして、心からご冥福をお祈りしたい。
浅川晃司